回顾与展望--高木贞治(II)

回顾与展望--高木贞治(II)

题图与内容并非毫无关系。

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それから1900年に私はゲッチンゲン(Göttingen)大学へ参りました。当時、ゲッチンゲン大学では、クライン(Klein)とヒルベルト(Hilbert)の二人の講座を有っていた。講座が三つになって、ミンコフスキ(Minkowski)が聘せられたのは後である。ここはベルリンとは様子がまるで変わっているので驚いてしまった。当時は毎週一回大学で談話会があったが、それはドイツは勿論、世界各国の大学からの、言わば選り抜きの少壮学士の集合で実際、数学世界の中心であった。そこで私は初めて、二十五にも成って、数学の現状に後るることに正に五十年、というようなことを痛感致しました。この五十年というものを中々一年や二年に取り返すわけにゆくまいと思われましたが、それでもそのあと三学期即ち一年半の間ゲッチンゲンの雰囲気の中に棲息している裡に何時とはなく五十年の乗り遅れが解消したような気分になりました。雰囲気というものは大切なものであります。

我1900年的时候去了哥廷根大学。当时哥廷根有Klein和Hilbert两人的讲座。讲座变成三个是Minkowski受聘于哥廷根大学之后的事情。这里与柏林相比,完全变了个样子,令我很吃惊。当时大学里每周有一次学术报告会,德国就不用说,从世界各国的大学选拔的年轻学人都聚集在那里,实际上那里就是世界数学的中心。我头次感觉到,我已然二十五岁,但我痛感自己落后于数学的现状足有五十年。这五十年的差距我想不可能用一年或两年时间来赶上,不过后来在哥廷根的环境下呆了三个学期,也就是一年半后,我的这种落后五十年的心情在不知不觉中消失了。环境这种东西确实是很重要的。

私はヒルベルトの処へ行ったところが、「お前は代数体の整数論をやるというが、本当にやる積りか?」とえらく懐疑の眼を以って見られた。何分あの頃、代数的整数論などというものは、世界中でゲッチンゲン以外でほとんど遣って居なかったのであるから、東洋人などが、それをやろうなどとは、期待されなかったのに不思議はないのである。さて僕が「やる積りです」と言ったところが、「それでは代数函数は何で定まるか?」と早速口頭質問だ。即答ができないでいる裡に、「それはリイマン(Riemann)面で定まる」と先生が自答してしまった。成る程、それに相違ないから、私は「ヤアヤア」(Ja,Ja)と応じたが、先生は、こいつはどうも怪しいものだと思ったろう。それからヒルベルトは、これから家へ帰るから、一緒について来いと言われるので、ついて行った。そこでの私のやろうというのは、例の「クロネッカーの青春の夢」と言われるものの中で、「基礎のフィールドがガウスの数体である場合、つまりレムニスケート函数の虚数乗法をやろう」と思うと言ったら、「それはいいだろう」と言われ、それから、今でもよく憶えているけれども、ウイルヘルム・ウェーバー町へ曲る所の街上で、ステッキでもって、こっちへ正方形を描き、こっちへ円を描いて、つまりレムニスケート函数を以って正方形を円の中へ等角写像をする図を描く、シュワルツのヴェルケに載っている画を描いたわけである。「お前はシュワルツの処から来たのであるから、能く知っているだろう」と、これを試問の続きだが、実はよく分かっていなかった。さてヒルベルト自身は、私が行きました頃は、整数論から離れてしまった後で、ちょうどそのころは1900年であったから,幾何の基礎論を済ました後であった、そうして1904年積分方程式、今のヒルベルト空間論の前身が始まる。それの中間の時期で、先生のやっていたのは、変分法や理論物理の微分方程式などであった。その頃ヒルベルトのやったことを受け継いでいるのはクーラン(Courant)である。ちょうどそういう時代であったから、ヒルベルトの側にいたけれども、直接には何等の指導も受けなかった。

我到Hilbert那里去的时候,他相当怀疑地看着我说:“你说你要做代数数论,你真的这么打算吗?”总之那个时候,做代数数论之类的人全世界除了哥廷根的人以外找不出几个来,因此东方人做这方面研究不受期待本来也不奇怪。我只是说了“我打算做[代数数论]”,他就马上开始提问:“那你说说代数函数由什么决定?”我没能立刻回答出来,Hilbert先生自己回答了:“是由它的Riemann面所确定。”[我一边想]原来如此,这肯定是正确的,一边回答说“是,是”,那时候Hilbert先生大概在想“这家伙不怎么行”吧。然后Hilbert先生说“我准备回家了,一起走吧”,于是我就跟他一起走了。在路上,我和Hilbert说我想做“Kronecker的青春之梦”,也就是“基域是Gauss域[注:即\mathbb{Q}(i)],也就是双纽线函数的复乘法”[的情形]。Hilbert先生说:“这个不错”。我现在也清楚地记得,那是在Wilhelm-Weber街的十字路口的一个拐角上,他拿着一根手杖,画了一个正方形,画了一个圆,也就是画了用双纽线函数实现从正方形到圆形的共形映射的图,这就是在画Schwarz文集里记载的那个图。“你从Schwarz那边来,应该对这个很清楚”,他这句话是前面口头提问的延续,但其实我不怎么清楚。我去的时候Hilbert已经不做数论了,那时是1900年,他刚完成几何基础论之后。之后1904年他开始做积分方程,也就是现在Hilbert空间理论的早期工作。中间这一段时间他从事变分法和数学物理方程。这段时间的工作后来是Courant继承的。由于正好在那样一个时代,虽说我就在Hilbert身旁,但并没有受到Hilbert的直接指导。



こういう次第で、私の留学は出掛けるときはえらい勢で出掛けて行ったけれども、帰るときには、すごすごと帰国した始末であった。しかし、例のレムニスケートの一件だけは、幼いものだけれども、論文を書いてヒルベルトに見せておきました。ヒルベルトはそれをドクトル論文と思っていたようだが、当時日本にも相当矜持が出来て、留学生がドイツのドクトルを取って来る必要はないといった時勢になっていたから、私もその論文を持って帰って、これを以って学位を頂戴したわけだが、トイツの土産と言えば、まあその位のものであった。

因此说,我出国留学的时候是充满干劲地出去的,回来时却多少有点沮丧。不过,前面提过的双纽线函数[这一方面的工作],虽说还不成熟,我还是把它写成论文给Hilbert看过了。Hilbert认为它可以作为博士论文,不过当时日本姿态很高,那时大家认为留学生没有必要在德国取得博士学位,我于是就带着那篇论文回国,用那篇文章拿到了学位,要说从德国带回来什么纪念品,那就是这些东西吧。

1901年に帰ってきてからは、いろいろな講義をさせられた。代数曲線とか、そこ他何をやったか忘れてしまったが、いろいろやらされた。そのお蔭で当時学生であった諸君は、大分フリーの時間が減って皆迷惑を蒙ったことであろうと思う。その裡に、吉江(琢児)君や、中川(銓吉)君が帰って来られて、私もそういう余計な仕事はやらなくて済むようになった。

1901年回国后,我应要求开了很多课。我开了代数曲线之类的课,其他的课程我记不得了,总之是开了很多课。因为这个,我觉得[这样]对当时还是学生的各位而言,自由支配的时间减少了不少,给大家添了麻烦吧。那时吉江君和中川君两位从国外回来,[托他们的福],我可以不必做很多额外的工作。

全体私はそういう人間であるが、何か刺戟がないと何もできない性質である。今と違って、日本では、つまり「同業者」が少ないので自然刺戟が無い。ぼんやり暮らしていてもいいような時代であった。それで何もしないでいた間に、今の「類体論」でも考えていたのだろうと思われるかもしれないが、まあそんなわけではないのである。

我本身就是属于没有外部刺激就什么也做不成的人。与现在不同,[那个时候]在日本没有多少同行,自然也就没有什么外部刺激。那就是个无所事事也过得下去的时代。说不准有人觉得我在什么也没做的那一段时间里在构思现在的类域论,但事实上不是这样。

ところが、1914年に世界戦争が始まった。それが私に良い刺戟であった。刺激というか、チャンスというか、刺戟ならネガティヴの刺激だが、つまりヨーロッパから本が来なくなった。そのころ誰だったか、もうドイツから本が来なくなったから、学問は日本ではできない——というようなことを言ったとか、言わなかったとか、新聞なんかで同情されたり、嘲弄されたりしたことがあったから、そういう時代が来た。西洋から本が来なくなっても、学問しようというなら、自分でなんかやるよりしかたがないのだ。恐らく世界戦争が無かったならば、私なんか何もやらないで終わったかもしれない。序にその頃の事で思い出したことがあるから、御話するが、ある人がこんなことを言うたのを記憶している。それは「大学教授を十年もやっていて、神経衰弱にならないのは嘘だ」というのだ。私は大学教授を十年はやってなかったかもしれないけれども、別に神経衰弱の徴候もなかったが、神経衰弱はどういう意味かといえば、頻りに本が外国から来る。丸善などには毎月多数来る。どんな本が新規に来るかを注意して見過ごされないようにするだけでも大変である。またそんな本をみんな買ってきて、買ってくるのも大変なんだが、それをみんな読まなくてはならないから大変だというのだ。それが神経衰弱の原因だという。全体、本を書くやつは大勢いる。それを一人で読まなければならないと思って、神経衰弱になるなどは、あまり賢明ではないようだ。私なんか幸いに生来不精で、人の書いたものをあまり読まないで、神経衰弱を免れたのである。同様の意味で、諸君に神経衰弱の予防を勧告したいと思うのである。

话说回来,1914年世界大战爆发了。这对我而言是好的刺激。该说是刺激呢,还是该说机会呢,要说刺激[本该是]负面的刺激,也就是说[本来能]从欧洲运来的书没法运过来了。那时候好像有谁说过,因为没有书从德国来,所以日本人就没法做学问之类的话,新闻对此也是同情和嘲讽的口气都有,那时就是这么一个时代。如果说西方的书来不了日本,还要做学问的话,那么除了自己动手没有什么别的选择。[对我而言]恐怕如果没有世界大战的话,说不准我就以什么都没做告终了。我刚好记起那时候的一件事,就顺便提一下。有人说过这样一句话,那句话是“如果谁做十年大学教授,说神经不衰弱那都是撒谎”。我做教授说不准还不足十年,不过也还没有精神衰弱的征兆。要说神经衰弱具体指什么,倒不如说说那些频繁从国外运来的书。丸善书店之类的地方每月会来很多书。[有的人]不管是什么新书来了,都会留意不错过,这样[可真够受的]。而且来什么就买什么书,买[那些书]本来就费力,把那些书全都读进去就[更]吃劲了。那就是神经衰弱的原因。本来写书的人就很多。要是认为那些书都是不读不可,从而导致神经衰弱,这样的人我觉得做事欠考虑。我这人幸好生来懒散,别人写的书我不怎么读,因此免于神经衰弱。基于同样的意思,我也想劝各位预防神经衰弱。

「類体論」の話を少しすると、あれはヒルベルトに騙されたのです。騙されたというのは悪いけれども、つまりこっちが勝手に騙されていたのです。ミスリードされたのです。

提到类域论的话,我[可以说]是被希尔伯特骗了。说骗不大好,那是无心之失,我只是被误导了。

ヒルベルトは、類体は、不分岐だというのであるが、例の代数函数は何で定まるか、リイマン面で定まる——という、そういうような立場から見るならば、不分岐というのは非常な意味を持つ。それは非常な意味を持つがごとくに、ヒルベルトは思っていたか、どうか知れないけれども、そんな風に私は思わされた。所が、本がなくなって、自分でやりだしたときにそういう不分岐など言う条件を捨ててしまって、少しやってみると、今ハッセ(Hasse)なんかが、逆定理(ウムケール・ザッツ(Umkehrsatz?))と謂っている定理であるが、要するにアーベル体は類体なりということにぶつかった。当時これは、あまりにも意外なことなので、それは当然間違っていると思うだ。間違いだろうと思うから、何処が間違っているんだか、専らそれを探す。その頃、少し神経衰弱になりかかったような気がする。よく夢を見た。夢の裡で疑問が解けたと思って、起きてやってみると、まるで間違っている。何が間違いか、実例を探してみても、間違いの実例がない。大分長く間違いばかり探していたので、そのあと理論が出来上がった後にも自信が無い。どこかに一寸でも間違いがあると、理論全体が、その蟻の穴から毀れてしまう。外の科学は知らないが、数学は「大体良さそうだ」では通用しない。特に近くにチェックする人が無いので自信が無かったが、ようやくのこと1920年に、チェックされる機会が来た。その年、大学教授の欧米巡廻ということで、外国へ往くことになった。その年にはストラスブルグで万国数学会議があったら、その時に持ってゆこうというので、急いで論文を書き上げたが、出発まで印刷が間に合わなくて、後から送ってもらったような状態であった。ところが、ストラスブルグの会議は、戦争の直後、連合国とドイツの側と分離した時代で、それはどうもそういう整数論の話などを持ち出すには最も不適当な所であった。類体論などに理解を持った人は僕の知っている所では二三人位で、先ずフューター(Fueter)、あれはスイス人だから来ていた。それからフランスではシャトレ(Albert Chatelet?)という人、その外ではアダマール(Hadamard)、彼は問題を理解する。興味を持つか、持たんかは知らんが、問題を理解する人である。まああてになるのは、こんな連中だけであった。なんでもあの時、レセプションの晩に、私の近くで、「あの日本人が整数論の話をするというではないか。多分フェルマーをやるんだろう。こいつは面白いぞ」などと私語するが聞こえて、私は苦笑した。会議では15分位の講演をしたけれども、無論、反響も何もありはしない。

Hilbert本人考虑的类域是不分歧的。如果从代数函数由其黎曼面决定这个角度看,不分歧具有非同寻常的意义。像“不分歧具有非同寻常意味”这件事,Hilbert是否从这个角度考虑过,他怎么考虑的,我是不清楚的,但是他让我这么去想。不过,我没有书[可资参考],所以我自己来做这个问题的时候,[注意到]如果把所谓的不分歧的条件去掉,尝试一下就可以得到Hasse的所谓“逆定理”,简单说就是正好所有的Abel域都是类域。这个在当时对我来说是件相当意外的事情。我在想一定是哪儿出错了。因此我就专心去找错误在哪里。那个时候我自己感觉我多少有点神经衰弱了。我那时常常做梦,梦里感觉问题已经解决了,但起来一算,完全不对。错误是什么,我试图找一个反例出来,但是却找不到。可以说我相当长时间都在找错误,就是后来理论搞出来了也没什么自信。只要[推理]哪儿有一点错误,理论整个就会溃于蚁穴。其他的学科我不清楚,不过数学里面“差不多就可以”这句话是行不通的。另外周围没人能帮助检查[证明],因此也就没有自信。直到1920年才有请人检查[证明]的机会。当时有大学教授的欧美巡回旅行,我受命出国开会。那年国际数学家大会在斯特拉斯堡举行,为了在会上[宣读]论文,论文是短时间内写成的,我出发时论文还没印好,论文是后来才送到的。斯特拉斯堡会议正是战后不久,德国与协约国集团处于对立时期,怎么说也是最不适合提数论相关话题的地方。我知道那么两三个对类域论有了解的人。一位是Fueter,他是瑞士人所以来开会。还有一个法国人叫Chatelet,另外Hadamard也理解相关问题。[他们对类域论]是否有兴趣或是有过兴趣我并不清楚,但他们是理解相关问题的。可靠的也就这几位。有次接待会的晚上,我听到附近有人悄悄说,“那个日本人不是说要讲数论方面的工作嘛。多半是讲Fermat大定理吧。这家伙有点意思。”[听到这些]我只能苦笑。我的报告时间是15分钟,不出意外,没有引起任何反响。

编辑于 2018-04-28